2014年2月14日金曜日

グローバルと言う名のカオス - 何を求めるか、で答えは異なる

グローバル化、国際的、クロスボーダー、異文化体験等々、日本では学校も会社も、政治もお役所も、日本のことだけを見て内向きな姿勢を見せることが時代遅れだと言わんばかりの様相である。だが実のところ、誰もそれが何かを知らない。あるいは誰もが自分だけの答えを持っていて、恰もそれが全てのように語り出す。

いきなり結論を言うと、詰まる所、多様性への受容性と言う事ではないかと思っています。

「グローバル」と一言で片付けられてしまうことが多いのだが、日本人にしてみれば、実はこれはカオスなのだ。「日本人」にしてみればと、ここでも日本人を一言で片付けてしまったが、地理的、地政学的、言語的に非常にその他の世界から隔離されて一定数の規模でもって社会生活を営んできた日本列島に住む人類を所謂「日本人」としておきます。

一般の日本人には、このグローバルと言う名のカオスは直接影響しませんが、一度上述の日本人でない人たちと直接の利害関係が生じ、その生活の一部なりとも関わるようになった途端にこのカオスに振り回されることになります。

この関わり方については人それぞれで、ケースバイケースと言う事になります。例えば隣に引っ越してきた外国人との付き合いだったり、勤務先の会社が外国の会社に買収された、あるいは買収したとか、転勤先が外国の支社とか現地法人とかであるなど。ある意味、普通の日本人にとっては未知との遭遇です。テレビや雑誌、場合によってはセミナーや研修を通じて頭で理解しているつもりでも、実際に直面して対応を迫られる問題は人によっては想像を絶しています。

グローバル化やグローバル人材と言った場合に、人によってその施策が異なるのは当然で、今後はそう言った様々な施策やその背景を分析して体系的に整理し、日本人の視点からグローバルと言う名のカオスを分析し、これに日本人として対峙するための基本的な姿勢や態度を探って行くことが求められているのだと思います。

従来の西欧諸国での国際経営学などでも異文化に関する研究は体系的に広く行われているが、ここでは、これを日本人の視点から再構築して行ければと思っています。

2014年1月5日日曜日

ニッポンのジレンマ 司馬遼太郎の「この国のかたち」とグローバル化

NHKのニッポンのジレンマ、元旦のテーマが「この国のかたち」。司馬遼太郎の同名のエッセイ集から得たテーマのはずだが、番組での議論は全くそれを踏まえたものではなかった。司会者からのテーマの由来の説明がなければ若い参加者の中にはそんなエッセイ集があるとさえ知らずに議論に参加しているもの居たのではないかと思えた。

司馬遼太郎のエッセイ集は「アメリカ素描」など何篇かは読んでいたが、「この国のかたち」についてはまだ読めずにいた。今日、6巻中の第1巻を読み始め、その半ばまで読んだところだが、その知識の豊かさ、広さ、深さと共に洞察力の深さに驚く。単に私が不勉強なだけなのかもしれないが、今まで自分の中で違和感の残っていた日本の歴史的事件について、その歴史的、地政学的背景を踏まえた世界及び東アジアの政治的、経済的な文脈の中で、それが発生する過程が無理なく説明されている。

この第一巻の前半では、おそらく生涯の課題であったであろう「なぜこの国はあの戦争をすることになったのか」についての司馬氏の精いっぱいの考察に終始している。日露戦争の講和条約の結ばれた明治38年から昭和20年まで、即ち1905年から1945年までの40年間を日本史の中の異質なものとして、またその理由を参謀本部による統帥権の濫用として、そうなるに至った歴史的な経緯など、その異質性を分析している。

「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に生まれたのだろう?いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と言われるように、司馬氏は数々の歴史小説を執筆する上での調査や分析、洞察を重ね、日本の、日本人の民族的な傾向や美意識、価値観、思考と行動のパターンをなぞり、世界と東アジアにおけるその地政学的なポジショニングと国内情勢の流れから、この国でそれぞれの時代において、歴史的な事件が、どのように発生して、どのような結果を生じたのか、その時代にそれぞれの役割を担った個性のある人物像を通してシミュレーションし、再現しようとしたのではないか。そして、それを先の大戦についても行おうとしていた。実際には、当事者として参加した戦争、生身の人間として過ごした時代について、同様のことはついに成し得なかったけれど。

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今の日本の政治的状況並びに日本を取り巻く国際情勢は、当に司馬遼太郎氏が明らかにしようとした、この国の在り方を問われる時。この国を先の戦争に導いた「なにか」を明らかにするべき時だと思う。
それが出来るのはその戦争を(体験として)知らない世代と、その戦後を(体験として)知らない世代なのかもしれない。そして、それらを直接体験した世代は、歴史として、次の世代に学ばせ、それを明らかにさせ、この国の在り方を定めさせる義務があるように思える。


2014年1月2日木曜日

グローバル化について NHK ニッポンのジレンマ - キーワード

日本のジレンマ

ボクらの範囲は何処まで入るのか。

日本は高度に発展した途上国。

単一の日本を作ることが戦後日本の目標。これが東京一極集中を招いた。

行政や国は当てにならないけど、実験場としては面白い。

戦後の価値観を達成できる人が少なくなってきた。価値観が多様化してきている。

ソーシャルリクルーティングサービス、仲暁子。

はあちゅう、伊藤春香。半径5メートルしか考えない。その中で起きることから世界へ繋がっている。日本の形を考えるのは偉い人。

国を意識することは余りない。足元から積み上げるしかない。

先崎彰容。現代社会の速さについていけない。モーターの速度があがってきている。

施光恒。この国、より、我が国。互譲互助の精神の国。

自分の周りの小さなものが壊されてしまう。これを守るのが国家。

自治から国家が生まれたのか西洋。日本は違う。城壁ではなく海で守られてきた国。城壁を意識しなくても良い。

軍事的な対立が高まって初めて国を意識する。

起業コストが非常に低い。世の中を変える為のインフラが整っている。

これからはインフラを維持するためのコストを払えなくなって来ている。

ホームランドとしての国はあったが、ステートとしての国はなかった。インターネットなどで外国を意識し出して、ステートを意識せざるを得なくなった。

個人と国家、というより共同体で繋がりたい。

ネットが人をつなぐ。

家入一真、起業家。国は居場所を作って来なかった。居場所を失った人がネットに集まっている。たまたま成功しただけ。

シェアハウスのコミュニティ、共同体が発展したものが国家に繋がる。
擬似マトリックスの世界を作って住んでいる人もいる。

自分と他人との摩擦を生じる。それに対応出来ずに起業したりできる人は、実は特殊。国は他国との関わりから逃れられない。国家は何かしてくれるところではなく、折り合いをつけて行くもの。

シェアハウスの人達は、擬似的な家族を作ろうとしているのかもしれない。

ネット上の属性はリアルとは異なる。

選べる5メートルと選べない国家。

共通点で繋がるネット。異なる人が集まってなんとかやって行く社会、政治。

プラットフォーマーとユーザーの視点の違い。

ネットの向こう側に全部置いてきている若い人が一杯いる。

国家、強者と弱者のバランスを取ること、場を保つこと。

シェアハウスをつないで国を作る?

外圧で変わる国。思想はいつも外から来るもの。

江藤淳と三島由紀夫。鼻を摘んで通り過ぎた三島。匂いをかいで呼吸を乱したという江藤は、戦後の変化を覚悟を持って引き受けた。グローバル化とはそういうもの。

白井聡登場。この国は溶け出している。国家機密保護法の成立は戦後民主主義の否定。

この国はダメなんじゃないか。民主党のゴタゴタ。

ダメダメというだけじゃダメ。アクションを起こせ。

一気に世の中を変えることは出来ない。今を作ってきたのも自分達であることは否定できない。

民主主義は権力をコントロールするデバイス。使わなければ意味が無い。

今の政治に何を言っても意味は無い。やるだけ無駄。

日本人は生物としての本能が欠如しているのでは?今だに東電も経産省も存在しているのは何故か。

我々は舐められている。
政治とはスルーするもの、という価値観が根付いている。スルーできなければ困るくらいのもの。

政治の敵対性はどうなっているのか?社会運動と政治。友と敵の区別。

半径5メートルと、半径5キロの世界が、グローバルの影響を考えざるを得ない。

日本は自然災害などで常にリニューアルしてきた。人や物が動いてきた。

艶、何か新しい、いいものがある予感。

今、結構満足しているから?
秋葉原事件。

階級による労働環境の差。

満足はシニカル。社会は変わらない。

自由な非正規社員の不自由。

政治の役割は社会インフラ、社会的基盤の整備。居場所作り。

この国の文化。

地方の循環社会があった。談合はそれなりに意味があった。

全体最適の議論。
部分最適の話は、
英語は勉強すべき。
プログラミングは学べ。
東京、シリコンバレーに行け。

母語で国を作れる世界をめざせ。
ものを考えていることは重要。
日本語で物事を考えることが出来て、文化的なものとして考える。

日本はツヤツヤしてるぞ。ワクワク感がある。

日本人の議論はお互いに批判し過ぎ。ネガティブ過ぎ。

国は人。変えたいと思っている人をサポートしたい。行動を起こすこと。多様性があって良い。政府はインフラを揃えよ。チェンジは確実に増えてる。

日本の対米従属。日本側が先回りして自主自立を放棄。社会の体力をつけろ。空疎なグローバル化が日本を溶かしてきた。

ブータンの幸福指数?日本は貧しくなってくると幸福度は確実に上がってくると思う。国は溶けても、小さな共同体のような形で残って行く。

部分と全体の関係は重要。
動員、人を動かして行くことは重要な仕事。

与那覇さん。意識の高い人ほど国にコミットしない。司馬遼太郎のこの国の形、を意識せざるを得ない世代。1970年以降に生まれた世代。これからは戦後を知らない世代。国のことを意識しないでも生きてこれた時代が続いてきたが、これからは意識せざるを得ない時代が来ている。

逃げられないなかで、妥協点を見つけようと出来るのは、言葉の力。まだ議論ができる余裕があるということ。


グローバル化とグローバル人材

グローバル化についての再考察、または備忘録。

グローバル化の意味するところは人それぞれの立場や心理的な状況によって異なり、また社会の中で担う役割のどの部分で反応するかで変わってくる。

「グローバル化」という言葉を最大限に一般化するとすれば、個人やコミュニティ、共同体の在り様に対して、国境を超えたところで発生した事象が直接的、間接的に与える影響が、対応を必要とするほど大きくなってきたということ。

これは世界的な社会現象であって、良い悪いとか、するしないとかの問題ではない。この社会現象の捉え方、この現象にどのように対処するかの方針や方法を考察することが、個人、コミュニティ、共同体、地域や国にとっての課題である。

この課題に対する解決の為に必要な議論は、現在起きている世界的なグローバル化と言う社会現象の実態と、その影響を受ける個人、コミュニティ等の属性から受ける影響の内容とその評価を明確にする事。そして回避又は軽減することが必要影響を事前に予測し、発生した場合に影響を最小限にとどめるための施策を策定し実行すること

即ちグローバル化に係るリスクを管理すると言う事。

グローバル化の実態の把握と、そのリスクを回避すべき主体、グローバル化と主体の主な関係を分析する。グローバル化の議論が横滑りして結論が出せないのはこの議論を抜きに発言者が自分の立場と知識だけで議論をしがちなため。


2013年12月24日火曜日

グローバル人材について その2

NHKのテレビ番組のニッポンのジレンマで、新しい世代のグローカルについて議論されていた。そこでは世代を超えた様々な地域や大学などにおける日本の地方都市や地域における外国人、外国の都市などとの関わりあいの現状や、その中で活路を見出そうとする模索する姿が映し出されていた。
グローバル化が叫ばれる中、そう叫んでいる学者や政治家たちだけがグローバルになれずに取り残されているように思えた。
英語を学び、外国の大学や会社に行って生活出来るようになることが今の日本人に求められているグローバル化だとは思えない。
今、自分の周りにいる外国人や外国に係る物事を、狭い日本人社会の枠組みの中だけで感じたり考えたりするのではなく、その背景にある地球上の国や地域やそこに住む人々の生活に関心を持って、自分や自分の住む地域や仲間たちとの関わりを持ちつづけることが今の日本人一人一人に求められているグローバル化ではないか。

2013年5月11日土曜日

グローバル人材って、何だろう?


最近特に耳にする言葉に、「グローバル人材」という言葉があります。

グローバル人材?なんやそれ?と思われる方も多いtと思います。世界で通用する人材、ということのようですが、それって一体どういう人材の事を言うのでしょうか。また、誰がどうやってそんな人材が育てられるのか。

いま、なぜグローバル人材が求められているか。また、これから求められると言われているのでしょうか。

日本の産業の空洞化が懸念されてきました。多くの日本企業は特に長期にわたる円高の為に国内産業の輸出競争力が低下し、タイ、中国、ベトナム、インドなどの低賃金の国へ生産拠点を移したり、台湾や韓国の企業に市場を奪われて国内の生産拠点を縮小したりしています。必然的に現地で採用する人材と日本から派遣する人材が同じ職場で働くことになり、日本から派遣される人材は現地の人材と比較し評価されることになります。国内での評価とは全く異なる評価基準での評価が求められることになります。また、それに耐えられる人材が求められます。

例えば日産自動車はフランスのルノーの傘下にあって、世界各地での現地生産を進めています。また日本の経営幹部には多くの外国人が採用又は派遣されています。

また、少子化の進む日本は、既に外資の誘致や外国人労働者の受入れをせざる得ない状況になりつつあります。また進む世界貿易の自由化の流れの中で、日本もTPPをはじめ様々なFTAやEPAなど、他国との自由貿易協定の締結を進めざるを得ず、これらの国々との間で商品やサービス、又投資等の自由化が人材を含めてグローバルな競争に巻き込まれつつあります。つまり、日本に居ながら、日本にいる、又は海外にいる外国人の人材と比較し評価され、それに耐える人材が求められると言う事です。

例えば多くの外食産業やコンビニエンスストアは中国人やベトナム人などを従業員として採用しています。また同じ自動車の製造に携わる工員は常に外国に在る現地の工場の工員と比較して評価されます。

では、どういう人材が外国人の人材と比較され、評価されるのでしょうか。逆に、グローバル人材でないとされる人材は、なぜそう判断、評価されるのでしょうか。

なぜ、日本で一般的な教育を受けて社会に送り出される人材はグローバル人材と呼ばれないのでしょうか。グローバル人材と呼ばれる為の特殊な訓練や教育が欠けているのでしょうか。では、海外の人材は全てグローバル人材なのでしょうか。世界中の人材は、グローバル人材とそうでない、ローカル人材が存在しているのでしょうか。これらが存在するとした場合、個々の人材のどんな条件でその分類が決まるのでしょうか。また、この二種類の人材の分類は何を意味するのでしょうか。

ローカル人材とグローバル人材とは何が違うのでしょうか。

グローバルな人材の市場で対象となる職種は、求められるスキルセットが国境を越えて標準化されている専門職、または普遍的に求められている知識及び経験を有している経営管理者。これらの職種にしても、従来は国内のみのローカルな人材市場において需給が均衡し、国境を超えるニーズも限定的で、外国から国内市場への人材の供給もごく一部に限られていました。

ところが前述のような日本の産業構造や経済状況、国際的な貿易環境や社会環境の変化が、これらの人材市場のニーズが変化し、同時にこれらの変化が外国からの人材の供給圧力を増加させています。

国内企業の海外進出により、求められてきた従来の要件に加えて、現地の人材として求められる要件をも備えた人材が内外を問わず求められると同時に、外国の優秀な人材が国境を越えて流入したり、外国に居ながら商品やサービスを提供することで国内の人材市場に大きな影響を与ます。つまり、ローカルな人材の市場としての国内の観光業や運輸業、伝統工芸や小売業などのローカルな人材市場においても、流入する外国人が現地化しつつローカルな人材市場に参入するわけです。彼らもまた母国での人材としての要件を備えつつ、日本での現地の要件を満たすグローバル人材と言えると思います。

つまり、ローカル人材とは、多様な環境のグローバルな市場に参加できない人材と言うわけです。また、ローカルな人材市場においても、今後はグローバル人材である外国人の参入が増えることが見込まれますから、まねのできない質の高い商品やサービスが提供出来る事が求められるようになるでしょう。

多様化しつつ変化し続ける環境と人との係わり

今まで述べてきたように、グローバル人材とは多様な環境へ適応することのできる人材だと仮定します。では、そのような人達は多様化する社会環境をどのように捉え、どのように対応し、どのように係わっているのでしょう。

人々を取り巻く社会環境について、既に変わってしまっているもの、今、変わりつつあるもの、これから変わろうとしているもの、変わろうとしないものがあります。また、変ることが出来ないものもあるでしょう。そんな常に変化している社会環境と人はどのように係わっているのでしょうか。一人の人間として、これをどのように捉え、どのように対応すればよいのでしょうか。あるいはこれを無視し、これらの社会環境と関係なく生きて行くことが出来るのでしょうか。

言い換えれば、一人ひとりの人が、それぞれどのような世界観を持ち、その中での自分の役割をどのように捉えているのか、そしてその役割をどのように果たしていこうとしているのか、と言うことが出来ると思います。

社会的環境としての世界をどのように捉えるのか

では、私たちを取り巻く環境として、何が、どう変わりつつあるのでしょうか?

「環境」と言っても、人によって感じ方は異なります。環境の変化や状態を捉える一般的な方法として、企業がビジネスの環境を分析する際の、最も基本的な手法としてのPEST分析があります。これは、自分を取り巻く外部環境を大きく次の4つの分野に分類整理して環境の多様化と変化を分析する方法です。

1.政治的な環境(Politics)
2.経済的な環境(Economy)
3.社会的な環境(Society)
4.技術的な環境(Technology)

これら4つの分野で、どのような要素が、どのように変化したのか、変化しているのか、変化しようとしているのかを整理して分析することは、企業のビジネスだけではなく、個人一人ひとりが置かれている様々な社会的な状況をより良くする為にもとても大切なことだと思います。

例えば、政治的な環境は日本でさえ政権交代が起き、政策の変更により日々の暮らしに影響する税金や物価、雇用などに大きな影響を与えます。日本の中でも都心部と地方でも影響は異なりますが、国が違えば当然制度そのものが異なり、全く異なる政治環境の下に生活することになります。

経済的な環境も日々の生活に大きな影響を与えています。景気が良ければ給料やボーナスが増え、生活水準も上がります。金利が上がれば住宅ローンの負担が重くなります。円高が続けば海外旅行の費用も安くなり、輸入食料品も安く買えます。

社会的な環境として、最も身近な家族や友人、住んでいる地域、学校や会社があります。これらも常に変化しつつあり、また、場合によっては自らの選択によって変える場合もあります。

技術的なものとしては昨今のIT技術の進歩によるコンピュータやインターネット、スマートフォンなどによる生活の変化などが挙げられると思います。

個人にとっての外部環境、世界の広がりと変化

人の成長に合わせて人が自覚する外部環境は広がりを持ちます。
生まれて直ぐに直接影響を及ぼすのは当然身の回りの人々や出来事ですから、社会的な環境としての家族そのもが外部環境の全てと言えます。まずここで人によって環境が大きく異なります。両親がそろっていること、兄弟がいるいない、祖父母が同居しているいないなどの違いで、子供の身に降りかかる出来事は大きく異なります。

やがて成長して、家の外へ出ます。もちろん母親や父親と一緒です。祖父や祖母の場合もあります。近所の公園や道路で出あう他人、同じくらいの幼児など。犬や猫に会うかもしれません。社会環境の変化です。すでに家族環境の違いで、子供一人ひとりの社会的な対応経験は大きく異なっており、社会的な出来事に対する反応の傾向はある程度パターンが決まってきます。

6歳になると小学校へあがります。その前に3歳又は4歳で保育園や幼稚園に通う場合もあります。家族という環境から全く別の、先生と同級生という社会環境に投げ出されることになります。ここら辺りから人は鍛えられ始め、社会的イベントに対する対応はそれぞれの対応パターンに応じて高度化させていくことになります。

こうやって、個人を取り巻く社会的環境への関わり方が個人の生き方や幸せを大きく左右することになります。個人が独立した個人として社会と関わる為には、自分を取り巻く社会環境をどのように捉え、どう関わって行くかをそれぞれの個人が考え、判断し、社会の一員として行動していくことが必要です。

適応しつつ独自の能力を発揮できる、環境とインターラクティブなグローバル人材

人は一人ひとり、それぞれの世界を持って成長して、日々の生活を暮らしています。そしてそれを自分なりに捉えて、日々の変化に対応して、人によっては気にせずに生活することもできますが、何れにせよ影響受けながら生活することになります。これらの外部環境については、変える事の出来ない所与のものと、自ら変えて行くことの出来るものがありますが、自分なりにこれを捉えて自分の判断で自分を変える、環境に働きかける、環境そのものを変えてしまうなど、自ら選択的に行動していくことがグローバル、又は普遍的な人材の生き方と言えるのではないでしょうか。

また、そうすることで他の人たちも同様の選択を繰り返している事を理解し、お互いの環境の一部として、また仲間としてお互いに尊重し合える関係を築いて行けるのではないでしょうか。